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島村さんは、代々津・腰越地域で山仕事を続けてこられた
「さき山」と呼ばれる家の方です。
昔の山仕事と、自然との関わり方などについてうかがいました。
さき山の山仕事
島村兼治さん(腰越在住)
【山の呼び方】
近年、「鎌倉広町緑地」の保全が決まりましたが、昔はこの一帯の山は津村の山と呼ばれていました。土地のことは、「○○ちゃんとこの山」といった具合に、持ち主の名前で呼びあらわしました。
【山の手入れ】
昔、山の多くは個人の持ち物で、さき山は依頼を受け、主にスギや家の梁(はり)に使うクロマツなどの建築用材を、大きなノコギリで切りました。
切った建築用材を山から下ろすときは、ある程度玉切りしてから、長い木の柄の先にカマのような歯のついた「とび口」という道具でひきずり落としました。谷底まで木を下ろし、大八車で運び出しました。
建築用材の残りや雑木は、各家庭の庭などでマキに加工し、風呂や台所に使いました。辺りで一番多かった木はコナラです。太い幹を切って利用し、次の代のわき芽を育てていました。
昔はいつもカマと水と砥石を持って、道の周りなどをきれいに刈りながら歩いていました。谷戸の山すその斜面で、下から8メートルくらいまでの高さの斜面を「ヤナ」といい、夏には月2回ほどヤナ刈りをしました。刈った草は、畑の作物の下に敷くなどして使いました。山の上では、木の下草を刈る「ソージ刈り」をよく行いました。
山の上の方まで刈るかどうかは、その下の田んぼの受益者が判断していました。田んぼに日がよく当たるようにするため刈るところもあれば、刈らなくても日が当たるところ・刈っても日当たりが変わらない(コサがある=谷戸の両側から木が覆いかぶさる)谷戸の奥では刈りませんでした。
【ザゲーリ】
表土が薄い谷戸の斜面では、木が大きくなりすぎると重みでひっくり帰ります。これをザゲーリ(=座返り、語尾が自然に上がるイントネーション)と呼びました。
草を刈ることには、草そのものを粘り強くする効用があり、強くなった草の根で土を抱えてくれます。「ヤナ」などに生えている木を自然のまま手を加えないでいると、「ゴボー根」といって、つるつるした根になってしまいます。木の枝を切ることで、「ケバ根」という細かいひげ根が生えて、根の耐久力がつき「ザゲーリ」を防ぐことができます。
さき山は「ここは木を大きくすると危ない」という場所も分かっていました。
私が覚えている45年ほど前に比べ、木はずいぶん大きくなりました。谷戸の底から見上げる空は、もっと広かったです。木は、15〜20年くらいで切りました。
2004年の台風で、大きながけ崩れがたくさん起きましたが、昔はこんなに山が崩れたという記憶はありません。木が大きくなりすぎ、太くなるとザゲーリします。大きい幹を切るのは大変ですが、手が届く限りのところだけでもヤナ刈りしてやると、「ケバ根(ひげ根)」が出て土を抑えます。
ササなどを刈るとき、高い位置で切った根元は「タカックイ」といい、もし踏み抜くとけがをしてしまいます。危なくないよう、根元から切るようにします。タカックイを見つけたら、横にしたカマの歯などでトントンと叩くだけでも、鋭利なところがなくなります。
【ヤナの植物】
草を刈ると、自然が傷つくように思われがちですが、根は残り、逆に日の差す場所を好む野草が生えやすくなります。
ヤナでは、よく刈られることによりシドメ(クサボケ)などの幹が太くなり、赤い花がきれいに咲きます。また、ユリは刈らずに残しました。特に植物が育つ春の盛りからは、山に入るとき、道を外れてはいけないというおきてもありました。昔は、リンドウなども普通に見られましたが、今ではなくなりました。野草を持っていってしまう人も多く、残念です。
【畑】
昔は、山の上を畑として利用し、下を田んぼにしていました。耕作できるところには、ありとあらゆるところに畑がありました。水田のあぜには、「たのくろ豆」と呼ぶ大豆を植え、ゆでて食べました。
山を開墾した畑は「あらく(語尾に行くにつれて自然と上がるイントネーション)」と呼びました。土丹がたくさん混じっているところで、サツマイモやジャガイモがよくとれました。「あらくは芋がうまい」と、お年寄りが言っていたものです。日陰の、水分を含んだ畑には、サトイモやヤツガシラを植えました。
【道普請】
谷戸の斜面の両わきや、尾根の上などに道がありました。農道は、バイパスとして、歩いてもいい場所でした。ただし、田んぼのあぜは、耕作者以外の人は、入るのを遠慮していました。
道が崩れたときは、近くの人が誰からともなく集まって、道普請をしました。山すその斜面の一番下の、草がたくさんあるところを主にクワで崩して切り取り、「ヤチ(園芸店で売られている芝のような、草の植わった状態の土)」を、反対側(谷側の一番上)に乗せました。山側を低く、谷側を高くします。
【ヤマイモ】
太くてもふくらはぎくらいの太さのコスギ(小杉、コにアクセント)には、ヤマイモがからみつきます。土が深くまであるところについて、祖父は「ジッカ(地下、語尾が自然に上がるイントネーション)がある」という言い方をしました。ジッカがあるコスギのところには、ヤマイモがあります。また、丈の低いコナラのところにもヤマイモがありました。芋掘り用のノミを、ツキノミといいます。ヤマイモがどこにあるかは、見つけた人の秘密です。
【魚】
谷戸の斜面からしみ出る水のことを、「しぼれ」といいました。
フナ、ハヤは一番上流までいました。タナゴ、メダカも川にいました。ウナギ、ホトケドジョウは奥にいました。イナ(ボラの子)は、下流にいました。
昔は、私の家で管理していた谷戸にもタガメ、ゲンゴロウ、オンバコと呼ばれるホトケドジョウなどがたくさんいました。タニシもたくさんいて、ゆがいて食べました。
川の中流では、夜、若い人たちが田んぼでライトを付けてウナギをとっていました。ウナギをとるかごを「モジリ」といい、中にミミズを入れておくと、入ったウナギが出られなくなります。これを朝、とりに行きました。
白山橋の向かいに、御所五郎丸というお侍さんの陣屋跡があります。ここの堰は、「ドンブラコ」と呼ばれ、昔は泳いだものです。堰は、コンクリートを打ったところに、3cm幅の板を入れたものでした。47〜48年くらい前まで、ここにはミヤマタナゴがいました。宝石みたいにきれいだったのに、一番先にいなくなってしまいました。45年前には、完全にいなくなりました。
子どものころは、台風が来ると、学校に行かなくてすんだので、「雨降れ〜雨降れ〜」と言っていたものです。神戸川が、腰越中学校のあたり一帯に氾濫しました。昭和40年代に川を改修し、深くしました。このため氾濫は無くなりましたが、土、草が無くなり、生き物が減りました。
【耕作放棄】
水田の耕作放棄は、バス停や駅に近いところから行われていきました。まず水田が埋め立てられ、次に山が切り崩されました。昔は西鎌倉の駅の辺りが一番の田舎、秘境のようでしたが、モノレールが引けて、あの界隈の田んぼが、一番早く無くなっていきました。次第に宅地開発が進んでいき、谷戸の奥は、最後まで残りました。
子供のころは、学校から帰ったら、離れた谷戸の奥の田んぼで作業をしていた祖父にお茶を届けに行かなくてはならず、帰るのが嫌だなあ、と思ったものです。とぼとぼ歩いていきました。
【子どもと遊び】
鎖大師へ向かう途中の山に大きなシイの木があり、実をとって食べると、お坊さんに「おーい、お前たち、落ちるんじゃないぞー」と言われました。つぶの大きい木があるところは秘密でした。
アカガエルの足などを食べるとおいしいので、子どもたちは競って取ったものです。
子どもは、今思うとびっくりするくらい高い木に登りました。トビの巣のそばまで行ったら、すごく攻撃されました。
ミズキの木は、昔から普通に山に生えており、「かぎっこの木」と呼ばれていました。葉柄をひっかけて2人で引っ張り合い、どちらが切れずに残るかを競って遊んだものです。
【人と動物】
辺りにはノウサギやイタチがたくさんおり、キツネも見られました。祖母は、ムジナ(アナグマ)に着物のすそをかまれたといいます。
人が自然を利用しつつも守り育てていた昔は、生き物に勢いがありました。