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若林伝吉さんは、2001年、岩瀬下関青少年広場に
伝統的な「上総掘り」で井戸を掘られた方の1人です。
ご自宅にも、60年前から使っていらっしゃる井戸があります。
湧水のある暮らし
若林傳吉さん(大船在住)
私は、この土地に住んで3代目になります。3代前は、主に田んぼをしていましたが、今は畑を耕しています。家業の農業をしていた20代のころ、近くの井戸掘り職人を手伝いながら井戸の掘り方を覚えました。
【上総掘りと湧水】
上総掘りは、江戸時代後期に考案されたという伝統的な井戸掘りの技術です。「ヒゴ車」という大きな木の車輪の中に人が入って歩いて回し、その動力で、地面にノミを突き下ろします。
この辺りでは上総掘りのヒゴ車などを使わずにノミだけで掘る「掘り井戸」も見られますが、せいぜい20〜30メートルしか掘ることができず、水が枯れたり、濁ったりすることがあります。また、川も、いつも水があるとは限りません。その点、ヒゴ車の力で地下深くまで掘り抜く上総掘りの井戸からは、いつも安定した澄んだ水が出るのです。
鎌倉でも昔から上総掘りは行われていましたが、「上総」の名前の元となった千葉に上総掘りを学びに行ったこともあります。千葉の方は関東ローム層で土が軟らかいですが、鎌倉の台や岩瀬は地下が岩盤なので、土地に合わせた堀り方を工夫しました。
2001年、上総掘りで、岩瀬下関青少年広場に、若いころの記憶を頼りに人力で井戸を掘りました。昔、近所で井戸を掘った経験から、始めは15メートルほど2〜3カ月かけて掘れば水が出ると思っていましたが、実際やってみると、最初思っていたよりずっと大変でした。9カ月かけて、140メートルも掘ったのです。
ボランティアの皆さんと一緒に掘ったのですが、期間が長引き、夏の暑さも加わって、だんだん人数が減ってきてしまいました。折れてしまったヒゴや堀り損ねた穴を修理したり、下に落ちたノミの刃を、2日かけて拾ったこともあります。そんな苦労をして掘った水が出てきたときは、本当に嬉しかったです。
小坂小学校そばにある自宅の井戸は、60年前におじいさんが上総堀りで掘ったもので、40数年前(昭和20数年)、深く掘り直しました。
この辺りの水は六国見山に降った雨が出てきたものです。家の井戸は60年前に掘った上総堀で、今でも毎分30リットルほどの水がこんこんとわき出ています。台所や風呂をはじめ生活水として利用しています。
地下60メートルからわき出ているもので、水道が引かれた今でも、ご飯やお茶に利用しています。井戸の水は流れっ放しで、捨ててしまうのはもったいないので、ときおり寿司屋さんなどに分けてあげると、喜ばれます。ただし鉄分があり、洗濯すると衣服が黄ばんでしまうため、洗濯には水道水を使います。
六国見山の中腹で畑を耕し、自分たちが日々食べる分を作って、余った分を近所の皆さんになどお分けする、という暮らしをしています。
家より標高が高いところにある畑の耕作には、普段は雨水を溜めた水を使っています。水が足りないときには、自宅の井戸から、井戸水を汲んで車で運び上げます。井戸からはいつも澄んだ一定の量の水が出るので、水不足の心配をすることなく、安定して利用できます。昔も、この辺りの井戸のある家は、水に困ることはなかったようです。
とった野菜を洗うのも、やはり自宅の井戸の水です。水温は年間を通じて16〜17度と一定で、洗い物は冬でも苦になりません。井戸の水を、こういう暮らしの中に普通に使っています。
私は普段から飲んでいるのであまり実感することはありませんが、井戸の水はまろやかで、くせがないようです。よその皆さんは皆、「お茶を入れると随分違う」とか、「ごはんを炊くとうまい」などとおっしゃいます。
昔は直径10センチくらいの竹を地中に埋めて、水が流れ出る口としていました。近所にも数軒、井戸のある家があったのですが、近年、この水の湧き出し口が壊れ、修理できずに、井戸を使うのをやめてしまったところも少なくありません。私の家では、自分で鉄のパイプを垂直に埋めて、井戸を使っています。
湧水の水量は六国見山のふもとが開発されて、半分以下に減りました。それでも水は出続けているし、水の質は変わらないようです。
井戸は、365日、絶えることなく水が出ますからね。いざというとき、自然に流れ出る井戸の水は役にたちます。
地震が来ても、井戸は枯れません。関東大震災のときでも、変わらず水が出ていたようです。近年、雪で鉄塔が倒れ、電気が止まって断水になったときには、近所の人も、家の井戸水を使いにきました。
井戸の周りは、いつもきれいに片付けて掃除しておきます。今でも庭の一角にあるお稲荷さんに、毎月1日と15日、水を供えています。また、お正月には井戸の枠にしめ縄を飾ります。こうした水を大切にするならわしが、先祖から伝わってきました。
何といっても、水は大切です。水さえあれば、生きることはできます。
昔の農家の人は、田んぼ・畑の耕作、家の屋根葺き、山仕事、家畜の飼育など、本当に何でもやりました。井戸の水を使うことは、その生活の一部でした。
井戸は今では少なくなりましたが、私たちは、かつて辺りの誰もが当たり前に営んでいた、日々の暮らしを続けているにすぎません。
これからも、昔からある井戸の水を大切に使って暮らしていくつもりです。
【昔の暮らしと水】
昭和10〜20年代の大船は、まだ見渡す限り田んぼが広がっていました。小さなころは、ため池や柏尾川で、コイやフナ、ウナギを捕ったり、夏の世には松ヤニを利用したランタンを手に、田んぼのドジョウ捕りをしたものです。家のすぐ前でシジミやドジョウがとれました。
かつて辺りには、地下水を利用した製氷工場や豆腐屋、醤油屋、ラムネ製造工場などもありました。
昔、茅葺きの家だったころは、今のように埋め立てる前で井戸より低い場所に家があったため、井戸に水を直接引き込んで、風呂や炊事に使っていました。
乳牛を飼っており、朝、乳を搾り、いたまないよう、井戸水で冷やしていました。近所にも乳牛を飼っている家が5〜6件あり、その数軒分の牛乳を、皆ここで冷やしておいて、乳製品を売る会社の人に車で買い取りに来てもらいました。
【畑】
畑を代々耕作しています。今でもノウサギやタヌキ、アライグマがいます。ノウサギは、タマネギの葉っぱを食べてしまいます。いつも2匹一緒で、年中、お昼にも現れます。タヌキはトマトや枝豆などを食べてしまいます。アライグマは、夜、根をほじくってしまいます。困ったものですが、ネットを張って防いでいます。
作った野菜は農協の年2回の朝市に出しているほか、家の前に即売所を設けて、町内の人などに利用してもらっています。自分たちが日々食べる分を作り、余った分を皆さんにお分けする、という暮らしをしています。何か作物を作らないと、草が出て土地が荒れてしまうということもあり、今も畑を耕し続けています。
鎌倉の畑では、いろいろな種類の野菜を、少しずつ植えています。谷戸の地形で比較的小さな畑が多く、いろいろなものを植えた方が、季節に合わせて出荷できるからです。現在、うちでは、個人で利用する野菜が主なので、まとめて1種類を植えることもあります。
六国見山の畑の周りのササやぶは、昔から変わりません。森林公園になると、また変わるでしょうが。また、反対側の円覚寺の裏山も、昔と同じような感じです。
昔は、落ち葉はきをし、米ぬかと混ぜて発酵させてサツマイモなどを育てる堆肥にしました。今は化学肥料や、市が植木せん定材などから作る堆肥があるので、使っていません。
やっぱり、堆肥は大切です。化学肥料だと、野菜に力がなくなってしまいます。堆肥だと、甘味が出てきます。
【茅葺きの家】
昔の家はどれも茅葺きの家でした。15家族が組になり、毎年1回、「今年はどこの家」という具合に、共同で屋根を葺いていきました。15年に一度、自分の家に順番が回ってきます。
カヤ場は六国見山の高校の上と、今の東京電力の建物の裏あたりにありました。農閑期の正月4日から3日間かけて、カヤ場でカヤ(ススキ)を刈りました。毎年刈っているので、カヤばかりで、ほかの植物は生えませんでした。
屋根葺きは、屋根職人やお手伝いの人たちが集まって、30坪で約1カ月かかりました。
茅葺きの際は、屋根の上に職人が登り、竹で出来たハリを突き刺して、裏からほかの人が抜いて、カヤを骨組みに縫うように葺いていきました。
壁をつくる際は、まず、コマイという竹の骨組みをつくりました。その後、泥と刻んだワラを混ぜて、壁土(かべつち)をつくりました。「あらかべ」を作った後、中塗りをして、その後、砂壁として、最後にしっくいを塗りました。しっくいには、白やベージュなどの色がありました。
屋根は、日の当たるところは、余計に痛みます。また、カラスが巣材に屋根のカヤを持っていってしまうこともありました。山ノ内の上の踏切のところには、まだ茅葺きの家が残っているようです。
この辺りでは、常楽寺の山門なども、茅葺きです。茅葺きは、トタンのように屋根が焼けず、夏も涼しいものです。
ホタルも、庭先に出てきました。夏になるとカが出てきて、苦労しました。ヨモギを生干しにし、焚きつけると、カが苦しんで家から出てきます。そこですぐに戸を閉める、などということをしました。もう少し後になると、蚊帳(かや)というものができて、つるしてカを防ぎました。
【山の手入れと道具】
マキも取りました。畑の土手を刈る「ヤナ刈り」や、山の木々の間を刈る「ソージ刈り」も行いました。機械もなかったので、すべて手作業でした。
畑の土手を刈った草は、天井に干して、田起こしの土に入れて肥料にしました。ヤナ刈りした草は、肥料として大切でした。畑の周りも、その結果、きれいになっていました。
ワラも自分たちで編みました。昔は、何でも物を無駄にしなかったですね。
わらじ作りの道具のほか、「ジョレン」という道具、 木を倒すために木の幹に打ち込むヤというくさびも、まだ家の納屋にとってあります。
昔は、家のそばでも田んぼをやっていて、脱穀に使う「センバ(千歯こき)」や「くるり」という道具もありました。
昔は、田植えをしながらなど、作業の合間に、歌を歌うことが多くありました。「大船甚句」や、「焼き米つき歌」なども、暮らしの中で歌っていました。私の家内は、田植え歌の保存会に入り、今もその伝統を伝えています。